全国各地の天守代用 随時追加予定。
 
久保田城御出書院(秋田県秋田市)

 近世に入り常陸から20万石余りで出羽に入封した佐竹氏が築いた久保田城は土造りの大城郭であったが天守が築かれる事は無く、数棟の二重櫓を建てていた。そこで本丸南西の土塁上に御出書院と呼ばれる建物を建てて天守の代用とした。南西から撮ったと思われる古写真が残されており、木々の間から唐破風の窓が付いた屋根とその下に裳階のようなものが写っているがその他の部分は木に隠れていて見えない。絵図では開口部の無い平屋のように描かれているが、書院造の建物という事で障子戸を描いた。 現在久保田は公園となり建物が何棟か復元されている。

盛岡城天守(岩手県盛岡市)

 盛岡城は本丸の天守台に三重の櫓を建て幕府への遠慮から御三階櫓と呼び天守の代用としてきたが、幕末に改めて天守とされた。この天守の反対側から本丸を撮った古写真が残されており、手前の二重櫓に重なるように天守が一部だけ写っている。僅かに写る部分には大きな華頭窓と異様な形をした鯱瓦が見てとれる。寒冷地のため赤瓦葺きで明治の払い下げ時の記録から建坪は25坪(5間四方)であった事がわかる。盛岡城は本丸が狭かったため御殿も一部が三階建てとなっていた。 現在城域は公園となり石垣がよく残るが建物の復元などはされていない。

鶴ヶ岡城本丸御角櫓(山形県鶴岡市)

 10万石を超える藩であった庄内藩の藩庁鶴ヶ岡城は元和偃武以降の築造であったため、戦闘力はさほど重視されず大きな櫓を建てる事が無かった。政庁としての実用重視であった鶴ヶ岡城の本丸には壮大な御殿が隙間なく建てられており、本丸の周囲を囲む石垣塁上には単層二階建の渡櫓が建てられていた。その本丸の北西角の塁上に二重二階、底面積3間×4間の御角櫓を建て天守の代用としていた。その他に二の丸南東にも二重二階の櫓が一棟だけ建てられていた。 鶴ヶ岡城は今も水濠がよく残り、この御角櫓を再建する運動が行われている。

米沢城三重櫓(山形県米沢市)

 関ヶ原の合戦の最西軍に加担したため会津120万石から米沢30万石へ減封された上杉景勝は、それまで城主であった直江兼続に命じて城と城下町を整備させた。米沢城は正方形の本丸の北東隅と北西隅に同じ三重櫓がなんと二棟も建てられており、そのうち北東(丑寅)の櫓を内々で天守楼と呼んでいた。幕府への建て直しの伺い状から規模は7間×6間、高さは四丈四尺一寸(約13メートル余り)である事がわかる。柿葺きの屋根で明治初期にイギリス人兄弟バービルが撮影した写真が不鮮明ながら一枚だけ現存する。 現在本丸と二の丸の一部が残り、本丸は上杉神社となっている。三重櫓の櫓台の土塁が両方残るが復元運動などは起きていない。

磐城平城三階櫓(福島県いわき市)

 古くからの領主であった岩城氏は関ヶ原の合戦で西軍に加担したために領地を没収され、変わりに譜代の鳥居氏が12万石で入封し、地名を岩城から磐城にあらため平城を築いた。城下町からよく見える本丸南面の崖上にあった三階櫓は磐城名物と歌われるほどこの地域の象徴となったが戊辰戦争の最に平城は自焼してしまう。櫓や門の外観をまとめて描いた図が残り、二重三階の三階櫓は高さが四丈三尺余り(約13メートル)、絵図の縦横比から推定して3間四方の建物だったと思われる。 現在JRいわき駅がすぐ下にあり復元されれば非常に良い経済効果があると思われる。一度模擬天守を建てる計画が起き、基礎部分まで工事が進められたものの中止となり、現在敷地は個人の土地となり立ち入る事ができない。本丸や周囲の土地も住宅地になってしまっている上、その中に残る櫓や門の石垣が東日本大震災により崩れてしまっている。

水戸城御三階櫓(茨城県水戸市)

 25万石の水戸藩も御三家でありながら武家諸法度や一国一城令の例に漏れる事無く、さらに関東内という位置もあり天守を憚り、二の丸に三重の櫓を上げ三階物見と称した。この櫓は平面規模が6間半四方の正方形で、初重が三階建てで計5階建て、総高さが六丈五尺(約20メートル)、曲輪外周の塁上や天守台などではなく、二の丸中央やや南よりの地面にそのまま建てられていた。下部の外壁に海鼠壁を用いる事によりあたかも石垣の上に建っているように見せている。昭和20年に戦災で焼失するまで残っていたため鮮明な写真が何点も残っている。戦災で失われた天守で唯一再建が叶っていないが、現在二の丸の敷地は学校用地になっているため復元が困難となっている。

古河城御三階櫓(茨城県古河市)

 渡良瀬川東岸に築かれた古河城は、中世には古河公方の拠点であり、近世には譜代大名の城であった、寛永年間にこの地に転封してきた土井氏は、前封地の佐倉城と同じく本丸北西の櫓台上に三層四階の御三階櫓を造営した。この御三階櫓の精巧な建地割図が残り、それを参考に上図を描いたが、それによると規模は初重の長辺が約8間、高さが約20メートルある巨大な櫓であった事が解る。現在明治時代に行われた河川改修により、一部を残し城は跡形も無くなっているが、この御三階櫓が遠巻きに写る写真が残されている。

忍城御三階櫓(埼玉県行田市)

 秀吉による北条氏小田原攻めの最の水攻めで名高い忍城は、近世には10万石の藩庁となり三の丸に御三階櫓が築かれた、この御三階櫓は三の丸の南東隅の土塁の内側に石垣を設け立てられており、明治時代に描かれた鳥瞰図には江戸城の富士見櫓に似た外観に描かれている。それを元に現在本丸跡地に博物館の一部としてRC造の模擬天守が立てられているが往時のものよりも大きく造られ、窓の数も増やされている。

川越城富士見櫓(埼玉県川越市)

 戦国時代初期に築かれ幾多の戦乱の舞台となった川越城は江戸期には川越藩の藩庁として拡張工事が行われ、近世城郭へと変貌した。天守代用と目される富士見櫓は本丸南西に張出した塁上にさらに土檀を築いて高くし、その上に建てられていた。江戸時代の絵図には壁の無い井楼櫓として描かれていたり、または三層の櫓であったと伝えられていたが、近年発見された建地割図では上図のような二層の塗籠の櫓として描かれている。その建地割図は非常に精巧で、妻側平側共に初重が6間四方で平側がわずかに長く、図面より推定すると12メートルほどの高さの建物であった事が読み取れる。この図の発見により近年では二重の櫓が二段の土檀の上に築かれていた事により、下の土塁を廻っていた塗籠塀の上に初重の屋根が見えたため、城下からは三重の櫓に見えたという説が出ている。

佐倉城御三階櫓(千葉県佐倉市)

 関東に入封した徳川家康は、当時まだ小領主が割拠していた房総半島を抑える目的で佐倉城を築城した。元和初期に建てられた御三階櫓は本丸北西にあり、櫓台を設けず本丸外周の土塁にまたがるように建てられていた。このため外側は三重三階、本丸からは初重2階建てで三重四階となっていた。現在佐倉城は公園となり馬出しなどが復元され、本丸の御三階櫓跡地は生垣で囲われて位置を知る事ができる。佐倉城の本丸は御三階櫓の他に江戸城の三重櫓を移築し二重櫓となった銅櫓も特筆すべきである。

鳥取城二の丸三重櫓(鳥取県鳥取市)

 鳥取城は久松山山頂の本丸と山麓の二の丸以下に分かれた構造となっており、本丸には天正元年(1573年)に三重天守が築かれたが、日本海からの風雪が激しく、慶長六年(1601年)に二重天守に改修された。現在残る天守台は20メートル四方近い巨大なものであり、天守は柿葺きで、付櫓を伴うものであったという。しかし元禄五年(1692年)落雷によりこの天守は焼失してしまう。それ以降山麓の二の丸にあった三重櫓が鳥取城天守の代用となった。この三重櫓は初重8間四方の巨大なもので、山頂の天守が建てられた時期には存在していたと言われる。18世紀初期の火災の後再建され明治12年まで残り、大手方向から撮られた古写真が残る。その写真を参考に上図を描いた。現在鳥取城は公園として整備され、建築物が順次復元されており、この三重櫓も復元予定である。この三重櫓とは構造が異なるものの出丸である天球丸にも三重の櫓が建っていた。

石見浜田城三重櫓(島根県浜田市)

 浜田藩5万4千石の城として築かれた平山城の浜田城は、小藩でありながら本丸に初重7間×9間という巨大な三重櫓を建てた、規模としては伊予松山城天守に匹敵する櫓であるが元和偃武以降の築造であったため天守とは呼称されなかった。二重目は7間四方、三重目は5間四方で二重目以上は層塔型天守の性質を帯びるが、初重を二重目より妻側だけ2間広げる事により望楼型の櫓となっている。本丸北の隅部に建てられていたが土塁や櫓台は無く、本丸平面上にそのまま建てられていた。幕末から明治にかけて描かれた絵図を元に上図を描いた。

伊勢亀山城三重櫓(三重県亀山市)

 亀山城は江戸時代以前に、本丸南東隅に大型の天守を建ててていたが、江戸初期に手違いにより解体されてしまった。その後、本丸北隅に三重櫓が建てられ天守の代用とされた。安永三年(1774年)の修理に関連した資料が残り、それによると三重櫓は高さ九尺の石垣の上に建ちそこから鯱の尾までの高さは9間(16メートル余り)。初重の規模は京間で4間×5間3尺となっている。初重から二重までは一辺につき半間から3尺と一般的な逓減率となっているが、二重目から三重目は一辺につき四分の一間分しか逓減しておらず、頭でっかちな三重櫓となっていた。三重櫓は明治初期に民家に移築され現在は本宗寺本堂に部材が転用されている。城地から解体される直前に撮られた写真が残されており、東面と北面の様子を伺う事ができる。

田原城二の丸二重櫓(愛知県田原市)

 田原藩は江戸期を通し一万〜一万二千石の石高であったが城持を許され、藩庁である田原城の大手門内側正面に城内唯一の二重櫓が建てられていた。往時の古写真が残されており、真壁造りの(ように見える)張出を備えた下見板張の櫓であった事が読み取れる。現在当時とは異なる意匠の二重櫓が同じ場所にコンクリートで復興されている。一万〜五万石の小藩の城は二重櫓を一基ないし数基建て、そのうち本丸や城の最高所、大手などの特別な場所に建つ櫓を城の象徴と見なした例が多い。

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