吉井陣屋 中心部位置 36.254755,138.985248
  

 概要

 江戸時代も中期になる頃、京都出身の徳川家旗本の松平(鷹司)信平は上野国内に一万石を与えられ大名となった。そこで信平は領地支配のため貞享3年(1686年)現在の高崎市木部町にあった中世の城、木部城に陣屋を構えたが、その後まもなく現在の吉井町矢田に陣屋を構え、さらに宝暦2年(1752年)この吉井陣屋に移った。
 場所は上信電鉄吉井駅の南方、吉井小学校の東方に位置し、現在は宅地化により殆ど遺構を残さないが、地形としては陣屋南西の土塁(春日社跡)だけが僅かに残り、建築物としては民家に払い下げられていた表門が文化会館の敷地に移築保存されている他、幕末の混乱期に江戸から引き上げてきた藩士を収容するために建てられた足軽長屋がかろうじてかつての陣屋敷地内に残る。


 現況

  
南から見た春日社跡。現在川原石のようなもので巻き立てられているが往時のものかは不明。高さは最大で2メートルほど。


土塁上は10メートル四方はある平場になっている。春日社は藩主鷹司家の氏神で、奈良より勧進したものであったが、鷹司松平家は定府であり、陣屋で暮らす事は無かった。吉井町より移行し高崎市の史跡となっている。


文化会館裏に移築保存されている表門。薬医門であるが屋根を高く造り格式を高めている。当初は反りのある屋根であったが移築の最に直屋根に改められた。

  
かつての陣屋の敷地の中にかろうじて残る足軽長屋。この写真を撮る数ヶ月前に西側半分程が解体されてしまった。


幕末に建てられた当時の足軽長屋の平面図。 1戸は縦横四間で5戸繋ぎ、計横20間の長屋であった。 急造のものなので非常に質素で、一戸につき独身の足軽が二人ずつ住んでいた。現在はリフォームされ全く間取りは変わっている。

 まとめ

 吉井陣屋は今まで何度か訪れているが、このページを作るために再訪した最に足軽長屋が半分解体されてしまっていたのを知り驚いた。群馬県文化財研究会により調査され、国指定史跡の価値ありと判断されたものの、行政の保護などが執られる事無く今回の事態になってしまったのは大変残念である。 このような事は高崎市内のみならず群馬県内、日本中で日々人知れず起きている事である。文化財や遺跡は一度失われたら二度と取り戻すことは出来ない。日本の歴史文化を守るために一人一人がその事を意識して後世に伝えていかなければならない。

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