館林城(尾曳城) 中心部位置 36.244018,139.544778
 
 
 
 

 概要

 上州東南部の平野は湖沼が点在しており、それに拠った沼城が多いが、館林城もその一つで、城沼と周りに広がる湿地に守られた堅城であった。
 館林城は尾曳城とも言い、狐に縄張りを教えられた築城伝説は有名だが、現在はっきりとした築城年ははっきりとしておらず、資料により15世紀中頃から16世紀前期頃までの開きがある。はっきり言えるのは戦国時代初期に赤井氏が築城したという事で、築城以来度々戦乱の舞台となり、城沼を筏で埋められ守城側が窮地に陥った最、狐の霊験により城が守られたなどの伝説も残されている。
 江戸期に入ると関東の諸城の例に漏れず、代々譜代大名の居城となった。江戸期の館林城は頻繁に改修が行われており、徳川綱吉が25万石(江戸期を通じて上野国最大の石高)で入封した最には一棟の三重櫓と三棟の大型の二重櫓、さらには本丸と南郭にまたがる多聞櫓門まで築かれた。しかし綱吉の息子徳松の急死により僅か20年余年で廃城破却となり、城地は急速に荒廃してしまった。
 廃城から24年後越智松平氏が入封し城が再築され、この頃に明治の記録に残る本丸二重櫓と南郭二重櫓が築かれた。
 最終期には秋元氏の居城となり、明治に廃藩置県により廃城となるも、明治7年の火災により焼失するまで建物は残された。尾曳稲荷に奉納された絵馬には、焼失直前の館林城が描かれており、後期館林城の様子を伺える貴重な資料となっている。

赤井照光 天文元年(1532) 築城し移る
     照忠 天文十四年(1545)
     照康 弘治二年(1556)
     照景 永禄九年(1566)
長尾顕長 元亀元年(1570) 城拡張・城下町を城の西部に移す
北条氏規 天正十三年(1585)

榊原康政 天正十八年(1590) 十万石 城・城下町拡張、利根・渡良瀬築堤
     康勝 慶長十一年(1606) 十万石
     忠次 天和元年(1615) 十一万石 (侍従)
松平乗寿 天保元年(1644) 六万石 老中(侍従)
     乗久 承応三年(1654) 五万五千石
徳川綱吉 寛文元年(1661) 二十五万石 将軍・(参議) 三万両をもって大修築
     徳松 延保八年(1680) 二十五万石 破城(天和三年)

松平清武 宝永四年(1707) 二万四千石 (侍従) 再築(宝永五年幕府より五千両)
     武雅 享保九年(1724) 五万四千石
太田資晴 享保十三年(1728) 五万石 若年寄・大阪城代
     資俊 元文五年(1740) 五万石 寺社奉行
松平武元 延享三年(1746) 六万一千石 老中・寺社奉行
     武寛 安永八年(1779) 六万一千石 奏者番
     斉厚 天明四年(1784) 六万一千石 奏者番・寺社奉行
井上正春 天保七年(1836) 六万石 老中・大阪城代
秋元志朝 弘化二年(1845) 六万石
     礼朝 元治元年(1864) 六万石 奏者番

 現況
 

  
二之丸の東半分と南郭は現在空地となっており、イベントの際の臨時駐車場などに使われている。かつて明治から昭和の終りにかけて館林市民の共同出資により設立された紡績会社、上毛モスリンの工場が建っており、典型的な三角屋根の工場が永く市民に親しまれていた。空地となった際に市から市民に対して今後の利用方針を決めるアンケートが行われたが、その後結果発表などは行われていない。高崎市でも市民討議会と称し市民を集めて市の運営について意見を聞いているが、市民の意見を聞くフリをするだけというのはどの行政でも行われているようだ。


広場に囲まれるように残る本丸の土塁。現在本丸の土塁は、西面と東面の一部と南面のみ残っている。隅部は大正時代に造られた擁壁で固められているが、その他の部分はかなり崩れてしまっている。


本丸二重櫓跡地には田山花袋記念文学館、本丸土塁の内側に向井千秋記念こども科学館が建つ、最も重要な本丸、しかも遺構も残る場所に何故ためらい無く関係無い施設を建ててしまえるのか理解に苦しむ。


八幡郭の北面、つつじ会館の入口には八幡郭の土塁の遺構と思われるマウンドがある。


八幡郭には現在つつじ会館と呼ばれている旧秋元邸別邸が存在する。ここに祀られていた八幡神社は西に移され、田山花袋記念文学館の裏手、本丸東面の土塁上にある。

 
本丸から三之丸にかけての城地の周囲を巡っていた水域は完全に埋め立てられているが、大部分の場所で僅かな段差となって痕跡が残っている。


稲荷郭に建っていた尾曳稲荷は現在敷地が広がり、稲荷郭と外郭の範囲を合わせた東三分の一の敷地となっている。この神社と南側の駐車場の間にも段差としてかつての水域の痕跡が残っている。

三之丸の土塁が市立図書館の前庭から県道7号まで達し、文化会館裏手の駐車場までU字型に残る。
        三之丸土塁には群馬県で唯一の城郭復元物である土橋門と枡形がある。この土橋門は、大正7年に秋元氏(苗字からして城主の子孫と思われる)が復元し、永い間の風雨で屋根を失っていた所を、昭和56年に解体後発掘調査を行い、昭和58年に今見られる姿に復元したという。しかし資料によっては昭和38年に観光事業として最初から屋根の無い冠木門として造ったとも書いてあり、近代の事なのに由来がはっきりしない。 


門の内側の枡形は近世城郭としては群馬県で唯一現存している枡形で、土塁の上に塗籠塀を廻らせるのは関東の城の基本のスタイルだが、県内で見る事ができる場所はここだけである。

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城町交差点の信号から市役所や文化会館への道の入口に千貫門跡地を示す碑が立つ。

 
本丸から三之丸城の最も東に位置する下戸張付近。堀の跡が水路として残る。


下戸張付近の堀跡の水路は現在直線に改修されているが、水路内側の縄張図1の地点の湿地跡が深田となって残っている。
 また縄張図2の部分の堀と水路が平成10年頃まで200メートルほどに渡って残っていたが、現在は宅地化によって消滅してしまっており、教王院の墓地の北側に僅かに堀跡と思われる窪みがある。

佐野口左右の総構の堀が比較的良好に残存しており、北西部はほぼ当時の状態で保たれている。
       http://takasakijou.web.fc2.com/tatebayashi15.jpg 西から東に向かって大手門跡地を見る。大手門を入って真っ直ぐ伸びる道は大名小路と呼ばれ、代々館林城主は三之丸に住んだが、徳川綱吉の時代はこの通りに城代の大名が住んでいたためこう呼ばれた。綱吉のために豪壮に改修された館林城だが、綱吉が館林に滞在したのは日光参社の帰りの僅か3日間だけであった。

 まとめ

 館林城の残存状態は、本丸土塁の一部、三之丸土塁の一部と復元土橋門と枡形、確認は出来なかったが西の加法師口付近の総郭の土塁、北面の総構の堀と土塁の一部となっている。その他外郭などの一部に道路や敷地境界などで郭の輪郭をたどる事ができる。

 明治初期に尾曳稲荷に奉納された絵馬を元に最終期の館林城の櫓の推定復元図を描いた。両櫓とも二重櫓にしては三間×二間が普通である近隣の城に比べて大きく、江戸城などの大城郭の二重櫓並の大きさとなっている。
 両櫓とも同じ形の破風を重ね、さらに一重と二重で同じ場所に張出しを設けるなどの特徴がある。
 広場の隅となっている南郭の南面の土塁と塀と二重櫓だけでも復元して欲しいものである。

 徳川綱吉時代の本丸付近(左)と秋元氏時代の本丸付近(右)、一度廃城となる以前は南郭は厩曲輪と呼ばれた。現在では石垣の遺構が全く残っていないが、時代により要所に石垣が使われていたと見られる。
 綱吉期の三重櫓(天守)は上の絵図の漆喰塗籠の姿の他、白木が剥き出しの真壁造りで描かれた絵図もあり、外観がどのようなものであったのか判然としない。

 最後に明治26年の浜田会誌から越智松平氏時代の資料を記載しておく。

館林城地目録(抜粋)

一、延享三丙寅年九月二十五日館林へ得替被仰付
一、同四丁卯年二月二十三日館林城請取之
一、館林築城 松平右近将監清武
一、平城 東西ハ沼 西北家中屋敷 西之方町屋

一、本丸 東西凡七十五間(135m)南北凡二十五間(45m)
一、二重櫓 間敷五間ニ六間(97.2平方m)
一、四方土手 間敷凡二百二十四間余(403.2m)高凡二間(3.6m)
一、蔀土手 間敷凡九間四尺余(17.4m)高凡九尺(2.7m)
一、瓦塀 間敷凡二百二十四間余(403.2m)高凡六尺(1.8m)

一、八幡郭 東西凡四十間余(72m)南北凡五十間余(90m)
一、三方土手 間敷凡百二十六間(226.8m)高凡二間(3.6m)
一、瓦塀 凡百二十一間余(217.8m)高六尺(1.8m)
一、八幡社 本社三間ニ六尺(9,72平方m)拝殿二間ニ三間半(22.68平方m)幣殿九尺ニ三間二尺(16.2平方m)

一、南郭 東西凡九十六間半(173.7m)南北凡三十四間(61.2m)
一、二重櫓 間敷四間ニ五間(64.8平方m)
一、三方土手 間敷凡百七十五間余(315m)高凡二間(3.6m)
一、瓦塀 間敷凡百七十九間余(322.2m)高凡六尺(1.8m)

一、二之丸 東西凡百十間余(198m)南北凡四十八間余(86.4m)
一、三方土手 間敷凡三百四間余(547.2m)高凡二間(3.6m)
一、蔀土居 間敷十二間(21.6m)高七尺余(2.1m)
一、瓦塀 間敷凡三百二間余(543.6m)高凡六尺(1.8m)
一、建家坪 凡五百三十六坪五合(1770.45平方m)

一、三之丸 東西凡百二十間余(216m)南北凡八十一間余(145.8m)
一、三方土手 間敷凡三百三十三間(599.4m)高凡二間(3.6m)
一、蔀土居 間敷凡十二間(21.6m)高凡五尺(1.5m)但シ上ニ板塀
一、瓦塀 間敷凡百八十九間余(340.2m)高凡六尺(1.8m)
一、柵 間敷凡百四十三間余(257.4m)高凡六尺(1.8m)

一、稲荷郭 東西凡百七十四間(313.2m)南北凡二十四間余(43.2m)
一、土手 間敷凡二百十八間余(392.4m)高サ凡九尺(2.7m)
一、稲荷社 本社三間二六尺(9.72平方m)拝殿二間半ニ三間半(28.35平方m)幣殿二間ニ九尺(9.72平方m)

一、外郭 東西凡三百六間余(550.8m)南北凡九十九間余(178.2m)
一、二方土手 間敷凡四百十七間余(750.6m)高凡二間(3.6m)
一、瓦塀 間敷凡六十四間余(115.2m)高サ凡六尺(1.8m)文化四卯年改九十一間(163.8m)ト成
一、仕切土手 間敷凡六十七間余(120.6m)高サ凡六尺(1.8m)

一、総郭 東西凡七百間余(1260m)南北凡百七十五間余(315m)
一、三方土手 間敷凡千三百十四間余(2365.2m)
一、大下水小土居 間敷凡百八十間余(324m)小土居高サ五尺余(1.5m)大下水幅三間余(5.4m)
一、瓦塀 間敷凡二百九十四間余(529.2m)高サ凡六尺(1.8m)

大手(冠木門 渡門) 伴木喰違(柵門) 加法師口(冠木門) 下戸張(冠木門) 丸戸張(冠木門) 内下馬(冠木門) 千貫橋(渡門) 土橋(冠木門) 二之丸(冠木門) 南郭虎口(常時柵門) 埋門(未出来) 水門(常時柵門 壷石垣有之) 本丸虎口(常時柵門)

一、本丸 凡廣サ八間(14.4m)ヨリ四十間余(72m) 凡深サ三間半(6.3m)
一、南郭 凡廣サ八間(14.4m) 凡深サ二間半(4.5m)
一、二之丸 凡廣サ十間(18m)ヨリ四十間(72m) 凡深サ三間余(5.4m)
一、三之丸 凡廣サ十五間(27m)ヨリ二十七間(48.6m) 凡深サ三間余(5.4m)
一、稲荷郭 凡廣サ六間(10.8m) 凡深サ三間(5.4m) 但堀幅深等伺之通ニハ未出来 文化三寅年御伺之通出来
一、外郭 凡廣サ十間(18m)ヨリ十五間(27m) 凡深サ三間(5.4m)
一、総郭 凡廣サ五間(9m)ヨリ十二間(21.6m) 凡深サ三間(5.4m)
                                              括弧書きの数字は1尺を30センチとしている


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