高崎城天守詳細

 高崎城天守は本丸の北西角の乾櫓と、本丸西面中央付近の刎橋門の間の高さ約7mから10m程の土塁上にあり、高崎城で唯一の三重三階の櫓でした。
 先述の通り、高崎城では天守を三階御櫓又は御三階と呼称しています、これは幕府が高層かつ華美な天守を築くのを禁じた後の構築であったため、幕府の不審を買わないため天守としてではなく櫓として認可を得たためでした。「城取大意」には「三階より高き櫓はなきことなり」とあり三重以上は櫓として認められていませんでした。

左より天保4年(1833年)作成の立面図、明治6年東側から撮影された天守、文化14年(1817年)11月作成の御城御土居通御植物木尺附絵図(一部加筆)

 下之重(一階)

 天守の正面は正確に東を向き、入口は南面にありました。本丸土塁を巡る塗籠塀が天守一階の南面西端と北面東端に取り付いています。
 一階の梁間は約五間三尺、桁行は約六間三尺、さらに天守の一番外側になり、また高崎城の弱点である北西の隅に九尺×九尺の張出しを設けて防御力を強化しています。この張出しは一階より床面が3尺ほど下がって設けられており、一階の長押下部付近より裳階が延びて屋根としています。このような大型の張り出しは他の天守建築に例が見当たらず、高崎城天守に最も個性を与えています。
 窓の数は、格子窓が入口のある南面に二箇所、その他が各面四箇所あり、立面図には窓の位置だけでなく格子の数まで記載されています。
 他の天守建築同様身舎(主要な柱の内側)と入側(主要な柱の外側、武者走りとも言い戦闘の最の持ち場となる)に分かれていますが、入側の幅は1m余りと狭く設計されています。通常見舎は居室、入側は回廊として使われていますが、高崎城では天守は武器庫として使われていたため畳などが敷かれる事はなく、身舎と入側の間に敷居などを設けて区別される事なく、全面板張りになっていたと思われます。
 外法と内法の記録から一階の壁の厚さが212〜270mmあったことが解ります。

一階から三階までの絵図は全て立面図と同じ天保4年に描かれたものです。

 中之重(二階)

 二階の梁間は四間余りあり、桁行は五間余りあります。
 二階の外壁下部に初重の屋根が取りつき東面と西面に各二つの千鳥破風(二つ並んだ千鳥破風を比翼破風とも呼びます)、南面と北面に東西面より大型の千鳥破風が各一つ設けられています。高崎城天守の建築年代から考えると南北面の大型の破風は望楼型天守から層塔型天守に移行する中間の望楼の入母屋破風の名残りであると解釈できます。 東西面の破風は二階の外壁面から殆ど張り出しておらず、また全ての破風の妻壁にも窓や挟間が無いため、実用性の無い全くの装飾のための破風である事が解ります。絵図では描かれていませんが古写真には破風の妻面に装飾の蕪懸魚と思われる影が写っています。
 平面の絵図には南東に四尺七寸×三尺五寸の上り口が描かれていますが、一階から上がって来るための階段が取り付けられていたものと思われます。日本の城の櫓の常ですがとても急角度な階段が取り付けられていたことでしょう。

 窓の数は格子窓が南北各二箇所、東西各四箇所で、東西面の中央の窓は一階東面中央の窓同様二つの窓が合体したような形状だったようです。
 
 一階同様身舎と入側があり、入側は一階よりさらに狭くなっており、しかもここに階段が設けられてしまっています。城内側となので特に問題はないのでしょうが、ここでも高崎城天守の実用性の低さが伺えます。

  上之重(三階)

 三階は梁間が二間三尺、桁行が三間三尺あります。
 梁間桁行共初重から三重までバランス良く逓減しているため非常に安定感のある天守となっています。
 二重目の屋根は、東西面に千鳥破風が各一つあり、南北面には破風はありませんでした。初重南北の千鳥破風が大型のため二重目の屋根に干渉しそうです、この場合大抵の天守建築では一つ上の階の屋根に唐破風を設けて下の階の破風にぶつかるのを避けますが高崎城天守には唐破風はありませんでした。
 天守は本来望楼に起源を持つものなので、最上階に物見の高欄などを設けず、あえて物見の邪魔になるであろう千鳥破風を東西面に設けたのは、すでに泰平の世となり実戦より美観が重視されたためと思われます。
 東面北寄りに四尺六寸×三尺の上り口のほか、北面と南面に窓から外を見るためか高さ三尺の檀とそれに上がるための階段が平面絵図に描かれています。
 窓の数は東西面に格子窓が各二箇所、南北面には禅宗寺院に見られる華頭窓が各二箇所並び格式を高めています。
 

 

 

まとめ

 高崎城天守は底面が約12m×10m余り。高石台の上端から棟まで12m67mm 総高さは13m28cm(一尺を303mmとした場合)ありました。
 天保の立面図では外周に内法長押(窓上部の線)と腰長押(窓下部の線)が描かれていますが、明治初年の写真では内法長押のみが写っており、高松城汐見櫓のように黒く塗られています。同時に描かれた他の櫓の絵図には明治の写真と同じ長押型が描かれており、なぜ天守の絵図にだけ腰長押が描かれているのか判然としません。

 高崎城天守は規模が小さいわりには千鳥破風が八つもあり、一階とニ階の入側の幅は1mほどしかなく、一階から三階まで階段が近く簡単に登る事が出来、また格子窓以外は挟間などが設けられていないなど、殆ど城の象徴としての天守であったと言えますが、高崎城大意では、実戦を行う上で大変意義のある建造物であると説いています。

 参考にした絵図は既に建造より200年以上経っていた天守の外のりや内のり、柱の寸法や間隔を計測して書き残したものであるため多少の歪みや誤差がある事を考慮しなければならないでしょう。

高崎城大意の記述

「三階櫓のあげ所、後に上げたりといふ。地形此の所に合って上げたると見えたり。西は山、北は林茂みあり。此の櫓なくては何を以てか敵を見切るべき。第一に、此の城大意と三階の上げ所相応ぜり。西 [西一本南に作る] に笛吹(碓氷の山の名)を眼のあたり見、海あるを脚下に見下ろし、横を討ち列を妨げ見方支ふるに力を得しめ進退相図るに用利深かるべし。南の方、木茂り矢窓にかかる、南見切を妨ぐ。見合伐度き所なり。 [三階櫓下の重西北の隅に張出したる所あり。横矢のためにもよく。さればこの出張りの南の方にも矢窓を明け横を打つに用いたし] 矢窓右に言える如く悪きにより損多し。然りといえども榎木郭西の丸の方、この郭たとへ敵充満したりといへども、この三階櫓一つを以て三重より矢玉を放たば籠中の鳥の如し猶安し。」

高崎城天守東面南面復元図 筆者作成

 

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