高崎城天守の重要性

 群馬県の天守

 群馬県下で天守の存在が確認されている城は、この高崎城と、前橋、沼田、館林の四城だけでした。(その他にも前橋の総社城、太田の金山城、中之条町の岩櫃城にも建っていた可能性があるそうです。)
その内 真田氏が支配していた時期のみ建っていた沼田城の天守だけが五重で、他は全て三重の天守でした。
 
 江戸期に入り一国一城令が布かれると、県内にあった城の殆どが廃城になり、幕府が城主格大名の治める藩として残された城は沼田、安中、前橋、高崎、館林の5ヶ城、そのうち安中城は高層の櫓などが無い陣屋仕立てで、他四城だけが近世城郭として営まれました。
 江戸期の城といっても必ずしも天守が建てられたわけではありませんが何れの城も天守、または関東の諸城と同じく天守代用の三階櫓が建設されました。
 
 

 
 沼田城

 
戦国期に沼田氏の居城として築かれた沼田城は、その後真田氏の支配となり、慶長元年(1596年)真田信幸の手により5重5階の天守が建造されました。しかし信幸の孫の信純が藩主の時、両国橋架け替えの延滞の責を問われ沼田藩は改易となり、天和元年(1681年)12月に沼田城破却の幕命が発せられ、翌年沼田城は破却となってしまいました。
 その後一時天領支配となり、本多氏、黒田氏、土岐氏が支配してゆきますが、その頃の沼田城は堀なども無い陣屋程度のものになっていました。
正保城絵図沼田城図、5層天守だけでなく大型の二層櫓や三層櫓なども建っていました。
 
 
 前橋城(厩橋城)

 戦国期より地域の要所であった前橋城は、徳川家康の関東入封後、譜代の酒井氏により守られ、城の最西端に位置する本丸の天守台に三重三階の天守が建設されましたが、江戸時代中期に利根川の侵食により本丸が流失し、その後も川に侵食され続けたため明和6年(1769年)に前橋藩は川越に移転し、三の丸の一部を陣屋とする以外に城は放棄されてしまいました。その後、前橋の領民の努力により幕末期に砲台を備えた近代城郭として前橋城が築城されますが、天守が造営される事はありませんでした。
前橋城天守台跡地に掲示されている前橋城天守推定復元図と酒井氏時代の前橋城絵図。
推定復元図では江戸城の富士見櫓と破風の形状までそっくりに描かれています。


 
 館林城

 江戸期に入り館林城には榊原氏、その後大給松平氏が入封しますが、その都度館林城は建物や郭の細かな改修が行われていました。
 寛文元年(1661年)第4代将軍徳川家綱の弟綱吉が25万石で入封した最、本丸を囲む土塁の上に三層三階の天守が造営されました。この天守は高崎城天守よりも大型で、一階の規模が八間×七間、さらに本丸の北東隅には一階の規模が高崎城のいずれの隅櫓よりも大型な六間×五間の二重櫓が上げられていました。しかし延宝8年(1680年)綱吉が家綱の養子になり5代将軍になると、吉綱の子徳松が藩主となりますが、天和3年(1683年)に徳松が5歳で急死すると館林藩は廃藩となり館林城は破却され、20年後越智松平家が入封するまで一時荒廃してしまいました。
吉綱時代の本丸(左図)と幕末期の藩主、秋元氏時代の本丸(右図)。館林徳川家以降天守が上げられる事はありませんでした。
館林城の天守は徳川家の城という関係か江戸城の富士見櫓と似た外観をしていたようです。(江戸城富士見櫓は一階が七間×六間、その他に現存するニ重の桜田巽櫓は七間半×六間となっています)

 

 高崎城

 高崎藩は井伊直正の高崎城築城以降一度も廃藩する事なく、雷の多い地方にありながら火災や地震、風水害などで失われる事無く明治7年に破却されるまで約250年間に渡り天守が聳え続けました。よって県内で唯一写真に収められ、また全容が判明している天守でもあります。

 近年再建された天守に、静岡県の掛川城、愛媛県の大洲城、福島県の白川小峰城などがありますが、いずれも資料などを参考にし、可能な限り忠実に木造によって再建された天守です。現在文化庁が認める城の再建には、発掘調査により位置や存在が確認されている事、写真や絵図など信憑性の高い史料が残され、構造や規模が判明している事が絶対条件になっており、高崎城天守はこれらの条件を全て揃えています。(なお高崎城は全域にわたり国の史跡に指定されていないため補助金を受ける必要が無ければ文化庁の許可を得る必要はありません。)
 近年歴史ブームの中、各地で築城400年祭などが行われ、それに伴い城郭の復元運動が盛んに行われていますが、資料の乏しい高松城天守や山形城など各地で行政主導により復元に必要な資料の探索を行っており、現存天守の残る松江城や丸亀城では門や櫓の復元のため、それらを撮影した古写真などに市当局が高額の懸賞金を掛けるなど、資料不足に喘いでいます。
 そのような中、関東平野周辺においては未だにコンクリート造による外観復元、復興天守に至るまで一棟の天守も再建されておらず、群馬県内においては、近世城郭建築の復元は一切行われていません。その中で全ての櫓と城門はもちろん、全ての塀の挟間配置、御殿や城内の武家屋敷の配置、水濠の配水経路や土塁の高さに至るまで他に類を見ない程豊富な資料が残り、木造でほぼ完全な復元が可能である高崎城天守の再建は非常に意義のあるものだと私は考えます。
明治6年撮影の東京鎮台高崎分営に残る天守と明治初期に作成された迅速測図(歴史的農業環境閲覧システムより)。分営の敷地となった後もしばらくは本丸が残されていました。
 
 

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