高崎城大意とは

 17世紀後半、
高崎藩に廃藩まで百数十年にわたり藩主を務める事になる大河内家高崎藩の初代藩主、大河内輝貞が入封してきます。その後しばらくして高崎藩の軍学者、山本十左衛門幸運が、軍事的知見から高崎城を分析した書物「高崎城大意」を藩主輝貞へ上申しました。
 以来高崎藩歴代の軍学者達が、時代と共に移り変わる高崎城を研究し、損壊や修理の不備を指摘し、または築城した先人の偉業を称え、都度ある毎に高崎城大意を改訂し藩主へ報告し続ける事になります。
 そして幕末、高崎藩から最後の和式城郭と言われる松前城を築城する事になる軍学者、市川一学を生み出す事になりました。
 城郭の歴史、物語を記した書物は数多いですが、城の構造や運用方法について記述したものは少なく、名古屋藩の藩士、奥村得義が名古屋城を研究した「金城温古録」などの例がありますが、高崎城大意のように百数十年に渡り代々城を守り続けた人々により研究され続けた書物は他に例が見られない大変貴重なものです。
 原本は既に失われており、幕末期に作られた写本が、現在高崎市に保管されています。
 

 冒頭部分紹介 (括弧内は山本幸運以来の軍学者の注
 

 上州高崎城大意

一、
 備えに正奇あり。敵に強弱あり。城に陰陽あり。一切天地の中に生ずるもの皆陰陽によらずと云うことなし。
防戦堅固の格、守城堅固の格、是又陰陽による。防戦堅固は敵囲みて攻むるとき、味方人数を出し遠追の自由を達し、全く城に篭り然りもまた虚に乗じて突いて出、敵を討つに便りあるを防戦堅固の格を言ふ。是れ陽の城、陽の縄なり。守城堅固の格と言ふは少人数にて篭り、たとえ大敵たりといえども味方守るに利あるをさして守城堅固の城。是陰なり、此の二品は城を取るの大意なり。
惣じて境目の城は(境目ノ城ト云ハ、国境ニ出城ヲ築キテ敵ヲ防ギ、本城ヨリ兵ヲ出シテ後詰スルヲ境目城ト云フ。此ノ高崎ノ城ノ如キハ江戸ノ御城ノ境目ノ城トモ云ウヘキカ)本城又は二の郭も陰に取り、三の郭は陽にとると言へり。
本丸の虎口も大かた一方口なり。是は本城に人質を篭め二の郭に大将有るべき為なり。(以上ハ城取ノ法格ナリ)
高崎の城の格は本・二の郭を陰にとり、守城堅固の格なり。三の郭は陽に取り防戦の格なり。誠習は言ふ、大人数を以て篭るにせまからず、少人数を以て篭るに広からず、是城を取るの極意なり。
(以上ハ城取ノ伝習ナリ)この意味を知らずんば城を守ることかないがたし。
味方少人数の時、いかがして此の郭の内に篭め、何方に置かんといふばかり案じ煩ふ内、不意の敵襲い来らば守城かないがたく、手もなく城を明け渡すべきにや、今時の人々かようの事云えり。是は城取りの稽古なき為なり。味方少人数を以て篭るに、本・二の郭に篭り、三の郭を払い(払ハ猶、捨ナリ)、本丸に人質をこめ本より守城の縄なれば、たとえ億万の人数を以て攻むると云えどもたやすく落城すべきにあらず。
又、大人数を以て篭るには三の郭を用いて、人質は本城西の方の郭に篭め、(今ノ西ノ丸・北榎郭ノ南ノ方刎橋門ノ外也。此書ニ西郭と云フ所ナリ)
此の所の二つの郭(榎郭・西ノ丸ナリ)南北虎口を取り(榎郭門・西丸門ナリ)西・北・南の三方土居あり(今西ノ方切岸ニテ土居ノ形見エザルガ)、中に水の手を取り(今牛堀とフ所ニヤ)、本城を囲み此の二つの郭広く見えて内に低き所ありて(低キ所、何レノ所ニヤ追ッテ考フベシ)敵攻むるに便りを失ふ意味深かるべし。
本・二・三の郭まで大意中々のべ尽しがたし。此城を広しと云ひ、又狭しと言ふは城の大意を知らざる故也。仔細は独立の大郭我れ独り篭るとばかり思ひ、又は必ず大人数にて囲むるとばかり心得、一向に思ふ事是皆大変にあふて度を失ふの本也。

(和田城略史)
一、
 本・二・三の大意有意有増なり。甲陽の頃は和田右兵衛、玄公(武田信玄ナリ)の幕下にして越後の謙信公に肖く時、雑兵壱萬参千の兵を以て今の高崎城を攻る(其時ハ和田ノ城ト言フ)。甲陽の横田十郎兵衛加勢として此城に篭りて右兵衛に力を合する。和田、横田騎士雑兵とともに九百余騎立篭る。謙信公攻むる事甚だ急なりといへども落ちず。横田は甲陽の鉄砲の上手、櫓に上って(所ノ者ハ榎ニ上リテト云リ)、謙信公の旗本に向って放てばその玉目当をたがへず。越君(謙信ナリ)の旗本床机の辺りに来て、近士御座を直す児性に当る。越君忿威の余りに城を巻ほぐして越国に帰り給ふ。何ぞ名将の児性独に此の城を加え多給んや。決定して落城せざる事を知り給んとも、故なく引給ふは弓矢の恥なり。
此時は本・二の郭にして三の郭なし。是則ち守城の繩たる事又は少人数を以て大人数の然も世に名を顕わす剛敵、しかも大敵に攻め落とされざるは当城の繩能しと言ふ事明白也。
少人数をにて此れの城を守りがたしと言う人もあり。それは、敵に戦はざる先に負けたるなり。
大小人数を兼ねて裂(裂ノ字製ノ字ノ誤リカ、大小ノ人数ヲ兼用テ城ヲ製作スルト云フ事ナルベシ)するこそ弓矢にかしこきと言ふべきなり。
一、
 其後、権現宮(家康公ナリ)命に依て箕輪の城を高崎の城に引く。元は箕輪の城は永野信濃守(長野業政公)が城にて地戦には千騎の大将たり。甲国の信玄公三年攻むるに落ちず。信濃守死して三年目に落城、玄公の御手に入る。此の時、越後謙信公の押へとして内藤修理在城なり。越後の押へ城なりと戓書に見えたり。
甲乱の後は藤沢五郎在城す。権現宮を背たると見えたり。
この時、保科弾正、酒井左衛門尉を以て権現宮の幕下に属し度きの旨を訴へて箕輪を攻むる事三日にして落城、時に権現宮の幕下に属し、宮の御手に入ると言えり(此城家康公ノ御手ニ入トナリ。)内藤修理は箕輪に在城して越国を押えるに便有り、今又東府(府ノ字本書ニ作符今改ム)御坐城となり江戸城を守り、笛吹峠を御妨(妨当作防カ)に箕輪の城より和田の城(今ノ高崎ナリ)益理ありの旨依って井伊氏に命じて箕輪を引いて今の三の郭を作って箕輪の城を移す。往昔は越国の押え今は又北国又は笛吹を押防て江城を守護の城なり。

(陰陽の繩)
一、
 本・二の郭を陰にとりてせまく、三の郭を広く陽にとりたる事、東府の加勢近辺の幕下集り守るに吉。しかりといえども、守るとばかり一向に思ふは悪し。敵の押し来るを守るというて無事に領地を通さんは本意なし。かねて其人を遣し(其人トハ武功アリテ地理ニ達シタル人ヲ言フ)内々に境の堅固の地を見せ置き、其の時にのぞみ逆茂木乱杭、地下の伏兵をおき橋をふし-校合引-(ふしノ字疑ハクハ橋ヲハズシカ)船を流し渡りを失はせ、半渡を討ちて、忍び、透波を用いて敵の営陣を焼き、武者を失せ(疑ラクハ武器ヲ失セカ)、火術を以て騒動させ、道を堀切り、その時にいたり(いたり本文ニ二いたらざるニ作ル誤リニ近シコレヲ改ム)謀を以て、守城せざる先に途中にて敵に塩を付けべき事なり。又は近辺(校合、又は近辺の篭城地下の一揆兼ねて試み置て取り治ると言ふも皆是云々)の篭城地下の一揆兼て試み取り治ると言ふも皆是堅と不堅とを知り(又ハ以下三十四字解シ難シ追テ可考)地に依て敵を制する事城取によらずと言うことなし。(敵ノ我カ)城地にいたらざる先に塩を付けても味方叶わざる時は城に篭りて、大人数ならば三の郭(今ノ三ノ丸ナリ)に篭めて敵攻るとも手いたく防ぎ虚を見て突て出合戦し守り戦の理にしたがふ。大敵の剛敵たりとも恐るるにたらず。和田の越君に攻められたるとは大いに違えり(和田ハ少人数ナリ大人数ナランニハ)人数郭中に充満して、透間もなく入替へ矢玉を以て防ぎ討散さば剛敵と云とも日を越し二六時中(昼夜ノ間)に虚(敵ノ虚シ怠ルナリ)なきと云ふ事やあらん。元と守と言ふは怠りの端なり。敵の怠りを見て人数を出し進退回旋規矩其の時の心にまかせなば何ぞ落城に及ぶべきや。是は皆三の郭の業なり。夫れに広くて人数配り不足と言い、又武具配りならずと言い、矢掛りなしの城と笑ふ事大なる誤なり。皆(皆ノ字当作是字カ)城を取る事をしらねば守る事ならずと古人言ひしに相当て郭内広きと難ずる事是皆その城の大意をしらず、一向に繩の堅固を頼む故なり。大郭にては少人数にて守りがたきと言ふ事も城取の意しらざる故なり。多勢小勢とも篭るにあぐまざるこそ名城ともよき繩とも言ふべし。今時の人是は○には此城は大きなりと言ひ小さきなりと言へり。これ皆城取の習う知る故なり。たとへば少人数にても篭り、又は億万の人数にても篭るに何ぞあぐむ事あるべし。かねて我が身体にあはせ普請をし堅固に(に本書ニ作ト誤カ)構えて言ふ心わからば俄の加勢者有らば(らハ本書ニりに作ル誤今改)いかがせん。又は家臣が心がはりして俄に減じたる時はいかがせん。増減に驚くなきこそ城取なり。高崎の惣構へと言ふ心を附くべし。
皆町の惣構へとばかり思へり。赤坂木戸恵徳寺の方には矢倉台をとり、長松寺(本書招松寺ニ作ル誤リナリ今改ム)の方には矢還りを取り虎口せまく堅固に取りてあり。勘味あるべし。南の方には虎口(町口木戸ナリ)を右に附けて石垣有り。かねて堅固を構、用害(要害の字シカルベキカ)を専らにする事は将の業なり(私ニ云フ、是レ大人数ニテ三ノ丸ニモ余ルトキハ遠構ヲ城内トス。カネテノ心得ナリ。)

 

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