高崎城略歴

 戦国時代、上野(群馬)の地は上野国守護兼関東管領の山内上杉氏やそれを支える長野氏をはじめとする諸勢力により支配され、長野氏の滅亡後は上杉氏の家督を継いだ越後(新潟)の長尾氏、相模(神奈川)の後北条氏、甲斐(山梨)の武田氏、武田氏が滅亡してからは織田氏により激しい争奪戦が展開されていました。
 天正十八年(1590年)、後北条氏に付いていた和田氏の城、和田城は豊臣秀吉の小田原攻めにより落城後廃城となり、以来和田の地は箕輪の属地でした。徳川家康の関東入封の際、箕輪には井伊直正が十二万石で封ぜられましたが、慶長三年(1598年)に江戸と大阪を結ぶ中仙道が開かれると、この中仙道と越後と江戸を結ぶ街道、三国街道の合流地点であった和田城跡に、直政は幕府の命により城を移し、関東の入口である碓氷峠や三国峠を抑える拠点としました。

 井伊氏の城地移転により、和田の地は高崎と改称されますが、直政は高崎在城僅か2年半で近江国佐和山に移り、その後5年間惣社の諏訪頼永が城代として高崎を支配しました。
 慶長九年(1604年)酒井家次が五万石で封ぜられて十三年在城、さらに元和二年(1616年)には松平(戸田)康長が同じく五万石で封ぜられて一年在城、ついで翌年松平(藤井)伊豆守信吉も同じ五万石で封ぜられ、元和五年に丹波篠山に移りました。その後同年に、安藤対馬守信繁が五万六千六百石をもって入封、以来安藤家が三代七十七年間支配した後、備中松山に移封されるまでの間に高崎城は改修され完成しました。

 安藤家による七十七年間の支配の後、元禄八年(1695年)に松平(大河内)輝貞が5万2千石で入封、その後一時 間部氏が入りますが、明治四年(1871年)の廃藩置県まで松平(大河内)氏が10代にわたり藩主となり、その間石高は8万2千石まで加増されていきました。

 廃藩置県後

 廃藩置県後高崎藩は高崎県となりましたが、各都道府県の県域が現在のものになるまで、短い間に様々な県が生まれては消え、また県域もその都度動いていました。

 明治5年(1872年)高崎城跡地には群馬県庁が置かれていましたが、六月一日に高崎城跡地に東京鎮台分営が設置された最に県庁が移転。翌明治6年には錬兵所を開くために、天守以外の櫓を破却。明治7年には天守が破却されました。
 
 
 明治七年六月陸軍省公文録 上州高崎城内不用ノ地所返附伺 同録 第一軍管第二師管営所宇都宮ニ改定ノ儀伺
 第一軍官新潟に分営が高田と共に高崎に設置されました。高田城(上越市)は平成5年に本丸塁上の三階櫓が復元されています。

 高崎藩と高崎城の年表

慶長3年(1598年)井伊直政、高崎入城。箕輪より寺や神社や城下町を映す。
慶長5年(1600年)城代諏訪頼水が城代となる。関ヶ原の戦いで東軍の軍勢2万が高崎城に泊る。
慶長9年(1604年)酒井家次が5万石で入封。
元和2年(1616年)戸田康長が5万石で入封。
元和3年(1617年)藤井信吉が5万石で入封。
元和5年(1619年)安藤重信が5万6千6百石で入封。
元和7年(1621年)安藤重長が継ぐ。
寛永10年(1633年)6万6千6百石に加増。二代将軍徳川秀忠の三男忠長が高崎城内で自刀。
明暦3年(1657年)安藤重博が継ぐ。(6万石)
元禄8年(1695年)大河内輝貞が5万2千石で入封。
元禄14年(1701年)6万2千石に加増。
宝永元年(1704年)7万2千石に加増。山本十左衛門幸運が「高崎城大意」を輝貞に提出。
宝永7年(1710年)間部詮房が5万石で入封。
享保2年(1717年)大河内輝貞が再び入封。(7万2千石)
延享2年(1745年)大河内輝規が継ぐ。
寛延2年(1749年)大河内輝高が継ぐ。
安永8年(1779年)8万2千石の加増。(高崎5万石、中越に2万7千石、銚子に5千石。以降廃藩まで変わらず)
天明元年(1781年)大河内輝和が継ぐ。
天明3年(1783年)浅間山噴火。
寛政12年(1800年)大河内輝延が継ぐ。
文化6年(1809年)伊能忠敬が高崎から安中まで測量。
文政8年(1825年)大河内輝承が継ぐ。
天保10年(1839年)大河内輝徳が継ぐ。
天保11年(1840年)大河内輝充が継ぐ。
弘化3年(1846年)大河内輝聴が継ぐ。
万延元年(1860年)大河内輝聲が継ぐ。
文久元年(1861年)和宮親子内親王、中仙道を通過し徳川家へ降嫁。
元治元年(1864年)水戸天狗党と高崎藩の間で下仁田戦争が起こる。
明治2年(1869年)高崎藩内で大規模な一揆が起こる。(五万石騒動)
明治4年(1871年)廃藩置県。
明治5年(1872年)東京鎮台分営設置 県庁移転。
明治6年(1873年)錬兵場設置 本丸の四櫓破却。
明治7年(1874年)天守破却。
明治8年(1875年)歩兵第三連隊第一大隊設置。
明治17年(1884年)第十四師団歩兵第二十八旅団所属十五連隊設置。
昭和20年(1945年)十五連隊解隊。
昭和29年(1954年)四代目の市役所庁舎が旧三の丸中央に建ち、市役所が城外から移転する。
昭和36年(1961年)総工費3億5千万(当時)で旧三の丸に群馬音楽センター竣工。
昭和40年(1965年)高崎城西郭(旧和田城部分)を貫く国道17号高前バイパス完成。
昭和47年(1972年)市庁舎の隣に市役所南庁舎竣工。
昭和51年(1976年)市郊外の農家に払い下げられていた乾櫓が修復され旧大手門南側に移築される。
平成10年(1998年)五代目の現市庁舎が旧三の丸南側に移転。
平成19年(2007年)国道17号バイパスの西側に僅かに残されていた旧和田城の遺構が立体交差建設のため破壊される。
平成23年(2011年)旧二の丸城代屋敷跡に健康保健センター開庁。

 
左 最後の藩主大河内輝聲。   中 幕末の動乱に備え大河内輝聴が作らせた稲妻の鎧。    右 高崎藩印。
 
 
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