高崎城の構造

 高崎城構造概要

 高崎城を紹介する多くの書籍やホームページには高崎城の旧名を和田城としていますが、高崎城は和田城を改修したものでは無く、西面の守りを烏川の流れに頼る小さな砦であった和田城をそのまま残し、その東側に全く新しく計画されたのが高崎城でした。本丸の西側にある細かく掘り切られた区画がかつての和田城であり、烏川の崖線に沿って小さな郭が南北に並ぶ城でした。
 高崎城は本丸を中心としてその外側に二ノ郭、榎郭、西郭が囲み、さらにその外側を三之郭が囲う三重構造で、梯郭式と呼ばれる構造の城でした。

 三之郭

 築城法で、攻勢防御を主とするものを陽の縄、持久防御を主とするものを陰の縄と言います。
 三之郭は陽の縄で、高崎城大意には城兵が多い時にはここから出撃によって攻勢をとり、少人数の場合は放棄され、二ノ郭以内に立て籠もるという一種の捨て郭で、用捨の縄といいます、そのため三ノ郭は赤坂門の馬出と東門南の出枡形以外は直線で構成され、土塁の上には櫓も塀も無い単純な作りになっています。
 高崎城大意では「捨曲輪となり用曲輪となるべし」「敵の怠りを見て人数を出し、進退回旋規矩其の時の心にまかせ」とあります。

 三之郭の西南部、南中門外には威徳寺があり、廃城後そのお堂が現在の成田山光徳寺にうつされています、この堂は藩主大河内輝貞が日光の綱吉廟建造の奉行をした時、設計の相違があって払い下げをうけたという壮麗なものです。

 現在市役所庁舎正面の道を南に下り、城外へ出る手前あたりにかつて富士浅間(絵図によってはセンゲン)と呼ばれた前方後円墳がありました。絵図では四角く区切られた小山に頂上へ登る道と社が描かれており、富士浅間の名前の通り江戸時代に流行した富士講に使われていたものと思われます。この古墳は廃城後兵営が造られる際に崩され、二之郭の濠の埋め立てに用いられて消滅したそうです。

三之郭南面濠沿いにあった富士浅間

 その他の三之郭の敷地は武家屋敷となっていました、記録によると高崎の藩士達は皆その他の藩の藩士達より極端に狭い家に住んでいたそうです。

 三之郭には5ヶ所に門があり、小さな棟門であった東門以外は全て2階建ての櫓門になっており、門の左右数間だけ土塁上に挟間付の塗籠塀が建てられていました。
 櫓門には門に攻めてきた敵兵を攻撃する石落としや挟間が備えられ、鉄砲の煙を出す窓も設けられていました。追手(大手)門は城の正面入口という事もあり二階には札が祀られていましたが、後の時代には物置になってしまっていたそうです。

 一番長い東面のみ虎口(出入口)が二箇所あり高崎城大意には、「二つの虎口は正奇の備えなり。攻る敵疑多し。」とあります。
 現在乾櫓の西にこの東門とされる門が移築保存されていますが、正しくは東門ではなく二の丸御殿の表門です。

三之郭東面の追手門と東門。実際の東門は大変簡素なものでした。

 大手枡形

 寛文九年(1669年)追手門の前に大手枡形という一つの構えが造られました。城下から城へ入る道の入口に、低い切込接の石垣の上に柵を設け、中央に木戸を建て、内側は二重の食い違いとなっていました。南側に町奉行所があり、この施設は城郭施設ではなく町人に対する行政施設であったようです。

大手枡形から追手門

 二ノ郭

 三之郭の内側、本丸の東半分を被う二之郭は、横矢を掛けるために土塁と濠が複雑に折られています。城門は赤坂中門、東中門、南中門の三つの櫓門があり、東中門のみ石垣で固めた二段築造の土塁の外馬出が設けられていました、間部詮房が城主の頃、この馬出を取り除きたいと言ったというのを難じ、高崎城大意では「これは軍利に通じ給うか又不通かおぼつかなし。」と述べています。
 二之郭の土塁には戦闘時に簡易な櫓を立てる台はあったものの常設の櫓は一棟も無く、鉄砲や大砲用の挟間や切戸を設けた塗籠塀がめぐらされていました。
 二之郭北側には、初期には藩主の留守を預かる城代の屋敷がありましたが後に火災で焼失し、米蔵が建てられていました。また、南中門内側には二の丸御殿がありました。平城である高崎城は、城外から本丸内部まで高低差が殆ど無く、本丸の水捌けが悪かったため、本丸御殿を使わず専らこの二の丸御殿を使っていたそうです。現在乾櫓の下に移築保存されている番所付の門は、この二の丸御殿の表門です。

東中門と外馬出。 南中門
 

二の丸御殿  画像上部に表御門と書かれた門が現存する表門

 乾櫓横に移築保存されている表門

 瓦小屋

 この郭は一辺60mの正三角形に近い一郭で、北面は堀、他は土塁が巡り、出入口に門は無く、柵で仕切られ木戸がありました。この他に出入口がなく袋郭のようになっていますが、当初は西北端から西の丸を廻る腰郭があって連絡づけられていたものが、その後川の浸食で崩壊して袋状になったのではないかと、城郭研究家の故山崎一先生は指摘されています。
 この郭は一種の隠し郭で、西郭門を攻める敵兵を背後から攻撃したり、またこの郭に迷い込んだりおびき出したりした敵兵を西郭から射撃して殲滅するという罠の郭と想定されていたものと思われます。
 瓦小屋という名称の由来は、初期には武家屋敷や櫓すら茅葺だった高崎城の建物が、時代を経るにつれて瓦葺きになっていったため、この郭で城内で使用する瓦を製造し保管するようになったためと言われています。

 榎郭

 城代屋敷から、榎櫓門を入った所にある榎郭は、北西がおよそ10m程の崖になっており、その外は城外になっていたため、本丸と同じ規模の広い濠をそなえ、土塁の上に二の丸や本丸同様大筒挟間をそなえた塀を建てて守りを固めていました。高崎城で最も弱点となる方向のため、本丸には北西隅櫓の乾櫓の他に天守を上げ、更に天守一階のこの方向に張り出しを設けて厳重に防御いました。
 この榎郭にはニノ宮と呼ばれる社が建てられていたため、ここから本丸へ至る門には二ノ宮門と名づけられていました。

現在の赤坂門付近の崖
 

 西郭

 北の榎郭に相対するようにある南の西郭は、城外から本丸へと至るルートから独立しています。これは孫子の兵法を手本にしたこの地域の特徴的な築城法で、別城一郭の構えと呼ばれ、二つの構えで攻守を担当するというもので、一方が攻められ守勢の時、もう一方が攻勢に出て敵の背後を突くという兵法で、高崎城は一つの城でこれを備え、「一城別郭」といわれます。
 入口には筋違いに立てられた西郭櫓門があり、外側である二ノ郭に対して土塁が築かれていますが、本丸からの死角を無くすため、塁上に塀は無く、巽櫓に対して直角に造られています。

西郭門

 焔硝蔵郭(旧和田城跡)

 「後堅固あるとも夫に頼りて本城をさかしきに近く取るべからず。腰郭を取りて次に本城を取る。」という築城の原則に従い、本丸の西に旧和田城の遺構がそのまま残されていました。烏川の崖と直交する空堀と土塁は和田城時代のもので、焔硝蔵郭の南の空堀に崖下へ降りる道があり、往時はここから川に下って渡河したり、川沿いの道から赤坂村(城の北西)へ抜けたりしていたようです。高崎城大意に「南の方坤の角台あり。櫓台にもあらず。井楼を上げて西山を見切るか、又は西山より、此の郭見透かぬかざしに取りたるか。」とあり、焔硝蔵郭には、臨時の櫓を建てるための土檀があり、国道17号和田橋交差点の南西角に和田城櫓台公園として残されていましたが、惜しくも平成19年頃に道路工事に伴い消滅してしまいました。
 焔硝蔵というのは火薬庫の事で、高崎藩の時代から昭和の兵営時代まで烏川の河川敷には射撃場が置かれていました。余談ですがこの櫓台は兵営時代には兵士達から203高地と呼び習わされていました。(廃城後置かれた東京鎮台高崎分営(
のち十五連隊)は明治初めの結成から昭和二十年の終戦まで日本が関わった全ての戦役に参加しています。)

 本丸(御本城)

 本丸は高さ7〜10m程の土塁が廻り、土塁上には四方にそれぞれ乾、艮、巽、坤の四つの二重櫓と一つの三重櫓が建ち、挟間付の塗籠塀が巡っていました。 
 東、西、北にそれぞれ出入口があり、西に刎橋門、北にニノ宮門がありましたが、築城当時は東のみに入口があり、ここの槻木門は井伊直政が建てた箕輪城の大手門を移築したもので、欅牙に「上州吉上州○吉家上州○十月日文禄四年法作上州○○十月日正作」と三行に彫刻が見えたといわれています。
 槻木門は高崎城最大の門で、櫓門の定法通り足下挟間が切られていました。門の内側は筋違いになっており、さらに平屋の番所前門が置かれ、内枡形としていました。高崎城では珍しく、この周囲は石垣で固められています。高崎城大意には「蔀には大方塀なきものなれども表塀廻しありて・・・・・蔀ながら枡形に用いて取りたるなり」とあります(蔀とは門の内側正面に目隠しで造る比較的低い土塁)。
 槻木門の外には梅ノ木郭という名の大型の馬出しがあり、北側に梅ノ木櫓門と、その反対側に埋門がありました、通常は城の埋門といえばトンネル状になっているものですが、この埋門は木戸のような門の上に土塁上の塗籠塀がそのまま上を通るというものでした。
 槻木門と梅ノ木郭の間の土橋には両側に塗籠塀が建てられ、外側から見透かされないようになっており、ここにも挟間と切戸が設けられていました。
 番所前門を入ると大番所があり、その裏には旗指物を刺したままでも支えずに用を足せる大きな武者雪隠(トイレ)がありました。
 その他本丸内には本丸御殿のほか能好きであった安藤氏が能を楽しんだといわれる能舞台が建てられていました。

 本丸の土塁は一際高く、平城でありながら本丸塁上の挟間から二ノ郭越しに三ノ郭の城門付近へ砲撃できるようになっていました。
 高崎城全体を通して、挟間の種類は鉄砲挟間10に対して矢挟間4という比率でした。鉄砲のみでなく数多くの大筒、大砲も運用された高崎城であっても、なお弓矢も重要な戦力として使われ続けた事が解ります。

 槻木門と番所前門により形成された内枡形

埋門

 

刎橋門から本丸を出て焔硝蔵郭へ渡る刎橋。門は造られたものの、この橋は部材まで作られていましたが途中で手が廻らなくなり、結局組み上げられる事はありませんでした。

ブース一つが一間四方、室内の高さが三メートル以上もある武者雪隠。


本丸御殿

高崎城矢掛絵図(一部)  本丸土塁上からニ之郭を越えて子之門を砲撃する事が想定されていた

 


 高崎城惣構(遠構)



かつての遠構の位置(国土地理院電子地図から引用)と文化10年(1813年)作成の遠御構筋絵図(南東端一部)

 井伊直正の高崎城築城に伴い城下町を包む「遠構(とおがまえ)」と呼ばれるいわゆる惣構えが構築されました。その位置は、北西端の長松寺の北から大雲寺北東の五差路までが北辺。この五差路から高崎美術館を結ぶ線が西辺。南は高崎美術館南から光明寺を南に折れ竜広寺を包んで烏川までが遠構の範囲でした。
 遠構の部分は現在殆どが道路になっており、往時は幅10m内外の水堀の内側に高さ4メートルほどの土塁があり、次の7箇所の木戸が付いた出入口がありました。

 ・常盤町口(中仙道西口)長松寺南側
 ・新喜町口(中仙道東口)新喜町
 ・相生町口(三国街道口)四ッ屋町境
 ・江木新田口(前橋口)高砂町
 ・羅漢町口(大類口)法輪寺南側
 ・通町口(旧街道口)安国寺南方
 ・前栽町口(片岡口)興禅寺附近

 この遠構は城の最外郭という位置付けになっており、中仙道の要衝である高崎に有事の際大部隊が通過する事を予想し、その収容を考慮したためで、実際関ヶ原の戦いの最、徳川秀忠の三万人の軍勢が三日間滞在した最に不自由しなかったといわれています。

 この遠構について「高崎城大意」には次のように記してあります。
「高崎の惣構へと言ふ心を附くべし、皆町の惣構へとばかり思へり。赤坂木戸恵徳寺の方には矢倉台をとり、長松寺の方には矢還りを取り、虎口せまく堅固に取りてあり。勘味あるべし。南の方には虎口を右に附けて石垣あり。かねて堅固を構え、要害を専らにする事は将の業なり。」
これに松山行堅が註して「是れ大人数にて三の丸にもあまる時は遠構へを城内とす、かねての心得なり。」と書いています。
 しかし高崎城の遠構は200年以上続いた泰平の世の間に城下の人々に徐々に埋められてしまったそうです。
 
 惣構えは江戸期の城下町によく見られ、近隣の館林城は現在も惣構えの水堀と土塁がよく残っています。
 

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