高崎城の現状

 
 明治以降赤坂門外の外馬出しを除きほぼ全域に渡って十五連隊の敷地となっていた高崎城跡地は、戦後日本軍の解体により全て空き地となり、追手門脇の松にちなみ高松町と命名され、昭和29年の4代目高崎市役所の建設に始まり、旧公営企業や郵便局、市立学校や国立病院、裁判所などが建設され、官庁街として開発されて行きました。

 昭和50年の復元計画

 そのような中、昭和50年に乾櫓の移転や市立博物館の建設と共に高崎城天守の復元計画が、高崎市の実施計画として浮上しましたが、何故か乾櫓の移転を除き実施される事はありませんでした。
 
 加速する高崎城の破壊

 その後最大の破壊となったのが平成10年に竣工した5代目高崎市役所の建設でした。かつて実行されなかった復元計画の予算の実に30倍以上の巨費を投じて、三ノ郭の興禅寺跡を中心に市役所庁舎、議会庁舎、シティギャラリー、シンフォニーロードや大規模な地下駐車場が建設され、多くの地下遺構が破壊されてしまいました。
シンフィニーロード沿いに建つ高崎市役所とシティギャラリー。 市制80周年記念に公園に改造されてしまった三の丸濠。
 
 和田城櫓台跡の破壊

 平成19年、和田橋交差点の南西にかろうじて残り、小さな公園となっていた旧和田城櫓台が、県内最大の渋滞を解消するという名目の立体交差化工事のため、市指定史跡にもかかわらずあっけなく破壊されてしまいました。 道路工事が終了した後も、跡地は市の親水公園整備のため復元される事はありませんでした。
かつての櫓台公園と現況
 
 高崎市健康保健センターの建設

 そして平成23年、本丸艮櫓跡に高崎市立健康保健センターが建設されました。相応の建築物を建てる場合地下に基礎を設けますが、高崎市は地盤が軟弱なためかなり深く基礎を造ります、そのため本丸の堀、城代屋敷跡、二の丸の堀の折れ部分などの重要な地下遺構がさらに深刻な被害を受け、さらに今後建物の寿命が来るまで数十年本丸の復元が困難となってしまいました。
高崎市健康保健センター
 
 市当局の姿勢と市民の意識

 現在も破壊が続く高崎城ですが、市に電話で問い合わせた所、今後も市として高崎城を復元する予定は無いという回答を頂きました。
 またかつて一度は復元計画が挙がった天守ですが、高崎城に天守が建っていた事実を知っている市民が殆どおらず、それ所か、城下町の町並みが全く残っていないため、高崎市が城下町から始まった都市である事すら知らない市民も居る有様となっています。なので今に至るまで高崎城を復元する機運が起こる事も無く、団体レベルの市民活動も行われてきませんでした。
 高崎市役所周辺の整備以降、市長を始め議会、市職員は「あたらしい高崎」というフレーズばかりを唱え、歴史を顧みる事無く、見た目だけ綺麗な町造りを進めてきました。 高崎駅東口の整備に関しても思いますが、利便性ばかりを追及して、街並みが速いサイクルで作り変えられて行く町に愛着など持つ事はできません。
 かつて私は西日本の殆どの都市を訪れた事がありますが、どの都市も市の中心部に立派な城が復元され、かつて天守のあった城には外観だけではありますが個性豊かな形の天守が復元されていました。
 今一度高崎市民は歴史に向き合い。小江戸高崎と呼ばれる程の繁栄を誇った城下町高崎を復古し、誇りを取り戻すべきだと私は強く思います。


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