厩橋城・前橋城 中心部位置 36.390888,139.060714
 
 

 概要

 厩橋城(以下前橋城)は2万4千年前に噴火堆積物によって形成された前橋台地の北西端に、15世紀頃厩橋長野氏によって築かれた。
天正年間には既に厩橋城とも前橋城とも両方の名前で呼ばれており、戦国期の前橋城は高浜郭、三之郭、厩郭までの範囲の規模だったと思われ、徳川家康の関東入封以降この地を任された酒井氏によって拡張され、その時に三重の天守が建造された。
 明和年間、利根川により前橋城が削られると城主だった越前松平氏は、東の郭に前橋領管理のための陣屋を置いて城を放棄し、川越城へ移っていった。以降幕末まで川越藩の分領として続いたが、生糸貿易で富を得た前橋領民のにより領主の帰城運動が行われ、慶応3年(1867年)城の修築が完了し、前橋藩が復活した。
 しかし僅か数年後の明治4年(1871年)廃藩置県により前橋城は廃城となってしまう。
 
 現況

  
1地点から見た北曲輪の土塁。往時は利根川が城を削るように流れており、残存土塁の北端には流れで削られた跡のような部分が見られる。


2付近より北曲輪土塁。土塁上に松の大木が生えているので幕末修築当時の土塁だと思われる。


3付近から見た空堀跡。かつては虎ヶ淵と呼ばれた大きな堀は利根川の旧流路の低地を掘ったもので、今ではミニ遊園地や庭園などになっている。

4 本丸北砲台と砲台上の前橋城の碑。現在唯一残る砲台跡で4間四方程の平場になっている。

 

5 本丸北の子の門跡。県庁と県警と城跡の組み合わせは福井城を彷彿とさせるが、前橋城は福井城と比べるべくもなく残存・復元状況は良くない。

 

 6 本丸西の乾丸。現在本丸の土塁は北側3分の1程度しか残されていない。かつての本丸の外周にそって道路が走っているが、線形改良工事により、まさにその形も失われようとしている。

7 昭和初期まで天守台の痕跡が僅かに残っていたらしいが今は全く認められない。天守台跡のすこし北に前橋城とゆかりのある虎姫観音堂があり、前橋城の推定復元図が掲示されている。

 

8 現在経済新聞社裏にある車橋門の石垣。昭和39年の土地整理により左側の石垣が8メートル狭められたため非常に幅が狭くなってしまっている。周囲の通りから全く見えないため注意深く探さないと見つける事ができない。 近世初期から廃城まで渡り櫓門が築かれていた。

9 外曲輪が東に突き出た部分に丁度国道17号と国道50号の起点の交差点がある。かつては今の国道50号を中心に城下町が広がっていた。

10 現在の県庁舎が建設される最に本丸内で発掘調査が行われ、中世から近世初期の堀などが検出された。粒が小さいながらも石垣が多用されている事が分かったが、現在は全て埋め戻されるか堀取られて地下駐車場となっている。 当時の工事関係者の話では県庁舎の地下工事の最、利根川の崖がすぐそばにあるにもかかわらず激しく水が湧いたため、大変な難工事になったとの事である。

 昭和九年作成の県庁舎周辺地図。古写真から分析すると昭和3年の県庁舎立替工事の最、本丸門周囲の土塁が取り払われたものと思われる。 以降昭和中期まで徐々に堀と土塁が撤去されていった。 本丸以外の堀と土塁は明治18年の迅速測図が作られた時点でかなり撤去が進んでいた。

前橋市役所展望フロアに市民が製作した前橋城と天守の模型が展示されている。 高崎市役所にもかつて高崎城本丸の模型が展示されていたが平成庁舎に建て替えられる最に行方不明になってしまっている。

最後の前橋藩主松平直克。徳川慶喜の意を受け朝幕調停に奔走した。

 本丸東側の土塁上から撮影されたと思われる本丸御殿。昭和3年に現在昭和庁舎と呼ばれる庁舎に立て替えられるまで県庁舎として使用され、多数の写真が残されている。 幾何学的な縄張りと砲台、そして望楼をそなえた本丸御殿は同時期に築城された函館五稜郭を彷彿とさせる。 

 まとめ

 現在現地に残る遺構は本丸土塁の一部、北曲輪利根川沿いの土塁の一部、車橋門石垣のみとなっている。 第二次世界大戦末期に前橋の町は数度の空襲に襲われ、本丸周辺や現在の市立図書館の周囲は焼け残ったものの、旧城下町や今よりも東に建っていた前橋市役所は爆弾の直撃を受けるなど激しい爆撃にさらされたため、かつては豪奢な山車が何十台も練り歩く祇園祭が開かれる程繁栄した城下町も、今では全くその面影を見る事はできない。


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