伊勢崎陣屋 中心部位置 36.323372,139.190029
 
  

 概要

 伊勢崎陣屋は慶長6年(1601年)稲垣氏が一万石で伊勢崎藩を立藩した際に築かれた。
 伊勢崎陣屋は広瀬川の東岸にあり、中世城館である赤石城の南側と接していた。
 稲垣氏は2代目で転封となり、その後は前橋藩酒井氏の支藩となり、酒井氏が姫路に転封した後も姫路藩の支藩として酒井氏が2万石で明治まで支配した。
 陣屋とは言うものの上の図の通り紛う事なき城郭であった。3万石の安中城との違いは土塁の上に挟間付の土塀があるかどうかの違いしか無い。藩主の御殿があった小さな本丸。家臣の屋敷や各役場、藩校や訓練場のあった二の丸。藪が繁る中に社が祭られていただけの乾崎郭から成っている。東面の大手門の外には隠し郭があり、後に陣屋の大手が南側に移ると隠し郭には牢屋が置かれた。陣屋の外にも家臣が住んでおり。城下町との境界には木戸を立て番所が置かれた。
 初期の伊勢崎藩は中世にこの地を支配していた那波氏の旧臣が多く採用され、酒井氏前橋藩の時代には前橋領から毎朝通う藩士も居たという。
 小さな城下町が陣屋の南から東に形成されていた。


 現況

  
広瀬川の西岸から対岸の陣屋跡地を見る。茶色い建物は伊勢崎市立図書館。


陣屋跡地は宅地化され目立った遺構は見られない。中心付近は現在小学校となっている。


藩校「学習堂」跡地。綺麗に宅地化されている。


市立図書館の駐車場。かつての川床から乾崎郭を見ているが、左に見える住宅の庭の藪は旧来のものだろうか。

  
大手門外の木戸があったと思われる場所から北東方向を見る。城下町のメインストリートは広瀬川に架かる永久橋を渡ってから北に伸び、ここから東に曲がってから再び北に曲がっていた。道の中央には水路が通っていた。


現在の永久橋(左上)伊勢崎領連取村の森村新造が天保12年(1841年)に3ヶ月の旅に出る際に描いた永久橋(左下)、永久橋の東の畔の船着場にあった石灯篭が今も永久橋の側に現存している(右)。


学習堂の古写真と私が描いた平面図。学習堂では各剣術や槍術など武士に必須の武芸や兵学などが教えられた。


陣屋跡地の北には赤石城の北面の堀が水路として残っている。明治まで存続した陣屋が跡形も無いにも関わらず、400年以上前に放棄された城の堀が残っているのは不思議な気分である。

 まとめ

 現在伊勢崎陣屋の堀や土塁は全く残っていないが、町割りや道路の形などに陣屋の輪郭や城下町の名残りを見る事ができる。また伊勢崎藩当時の武家門が陣屋跡地よりやや北にある同衆院の山門に、御殿の玄関だったと思われる式台が連取本町の古民家(市指定文化財)に移築され今日でも見る事ができる。
 明治元年(1868年)、東山道総督府による江戸城総攻撃を目前にして、藩主酒井忠強の命により江戸藩邸に居る藩主夫人を幕府軍に砲撃されつつ救出した伊勢崎藩士、栗原順庵の日記が残るが、是非映像化してほしいものである。


最後の藩主酒井忠彰

 
[上野の城へ戻る]

inserted by FC2 system