江戸城富士見櫓は江戸城本丸南端に位置し、天守台を除いた本丸最高所に建てられている。慶長11年(1606年)に二重の櫓として建造され、明暦3年(1657年)の大火の際天守と共に焼失したといわれる。その後今日に見られる三重櫓として再建され、江戸時代を通じて再建される事の無かった天守の代用の櫓とされた。規模は7間×6間で江戸城内の重層櫓で最も多くみられる規模である。幕末から近代に掛けて最上階屋根に火の見櫓が取り付けられていた。
東側より。
南側より。漆喰総塗籠、長押、石落としを中央に設けるスタイルは徳川系城郭の典型である。
西側(本丸側)から見た富士見櫓。外側に対して本丸側は破風が全く無い。
本丸南西に位置し隠居郭であった西の丸の南西端に位置する伏見櫓は寛永6年(1625年)に建造され宝永2年(1705年)に立て直されている。当初より二重二階の櫓で規模は6間×5間。隣接する多門櫓も現存で、重層櫓と多門櫓を直接繋げずに間に塀を挟むのは江戸城の櫓の特徴であった。
江戸城三の丸の南東端に建つ桜田巽櫓は江戸城に残る櫓で最も大きく、規模は7間半×6間。建築年代は不明。今日自由に往来できる皇居外苑(西の丸下)に接しているため、江戸城で唯一常時近くで眺める事が出来る。
笠間城八幡台櫓は本丸に二基あった二重櫓の一つで、往時は天守郭入口付近に建ち、現在も櫓が建てられていた土塁が残る。明治9年に城下の真浄寺の墓地内に七面堂として移築されている。規模は4間×3間程で、仏堂として移築されるにあたり改造の跡が見られる。
背後から見た七面堂(八幡台櫓)。建物裏にある出張りは仏像を安置するための改造と思われる。入母屋屋根の妻側が小さいのが特徴的である。瓦の家紋や棟に乗る鯱がこの堂が城郭建築である事を如実に表している。
高崎城乾櫓は本丸北西端に建っていた櫓で、現在は三の丸西面の大手門跡の南30メートル程の場所に移築されている。建造当初平屋建てであった櫓に二重部分増築したため珍しい重箱型となっている。規模が3間×2間と小さい上に初重と二重目が同規模のため安定感が悪くなる所を二重目の高さを実用最低限まで抑える事によりバランスを保っている。
上画像より反対側の城内側(南西側)より見た乾櫓。明治初期より昭和末期に掛けて農家の納屋として使われた経緯があり、現在の窓や入口の位置は納屋時代の位置を踏襲している。