藤岡城(芦田城) 中心部位置 36.241759,139.074989

 
  

 概要

 天正18年(1590年)8月、徳川家康の家臣芦田康寛(松平・依田康貞)は家康の関東入封の最3万石でこの地に封ぜられた。同年11月康寛は浄法寺に仮住まいをしながら築城を始め、翌年4月築城半ばで入城した。
 しかし慶長5年(1600年)春、小栗三助という者と囲碁をした際、どうしても勝てない三助が康寛を愚弄、逆上した康寛が三助を刺殺してしまい、たった10年で康寛は改易、藤岡城は廃城となってしまった(その後康寛は別の地で復帰している)。
 構造としては200メートル角の方形単郭だが、大手には枡形が設けられ、近世城郭らしい大きな堀と土塁で区画されていた。 

 たった10年で廃城となった藤岡城だか、跡地は明治の世まで殆ど崩される事なく残されていた。 現在の遺構は北門(搦手)から北西櫓台までの土塁と北東櫓台のみとなっている。


 現況

  
北西端(上画像)と北門正面(下画像)から北面土塁を見た状況。道路から土塁の間にかつて堀が廻らされていた。堀跡は平成15年頃まで材木置場となっていた記憶があるが、何時の間にか宅地として分譲され土塁に新しく擁壁が巻かれている。


東から見た北東櫓台。現在櫓台上は西南戦争から大東亜戦争までの戦没者を祀った英霊殿となっている。画像手前の砂利敷きもかつての堀跡である。 削り残されて小山のようになっている櫓台を工務店の敷地がぐるりと囲んでいる。


城の東面は現在県道40号が走っている。土塁があった場所に民家の築山があるが遺構かどうかは不明。空地が僅かに窪んでいるが堀の名残りであろうか。

  
北門跡から城北面の残存土塁を見る。現在城址緑地という名の市の公園となっており、入念に樹木の剪定が行われている。


土塁には数箇所階段があり土塁上の散策路に上がる事ができる。 高さ6メートルもの大土塁は県内残存最大級である。 農地が広がっていた時代は藤岡の宿場町からも大変目立っていたであろうが、市街地に呑まれた今も、そばに立つ二階建ての住宅の屋根越しに景色を望む事ができる。


北西櫓台跡には昭和22年に学校建設のため城址敷地20889平方メートルを寄付された井本タイ女史の顕彰碑と像が置かれている。ここから西面の土塁が大分低くなっているが僅かに残っている。

 まとめ

 取り壊され易い平地の土塁造りの城であり、かつ近世初期のたった10年しか営まれなかった城でありながら、これほど良好に土塁が残っているのは奇跡と言える。現在緑地公園となっているが是非史跡指定をして、多くの方々が言われているように説明看板などを掲示して欲しい。
 藤岡城の廃城後藤岡は中山道の姫街道の宿場町として江戸時代を過ごすが、もし(歴史にもしもは無いが)藤岡が近世の藩として存続していればまた違う顔の今の藤岡市があったのかも知れない。

 
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