安中城 中心部位置 36.330693,138.895651

 
  

 概要

 安中城は永禄2年(1559年)、当時のこの地の領主であった安中氏が勢力を及ぼしつつあった武田信玄に備えるため、九十九川と碓氷川に挟まれた河岸段丘上に築かれた。
 家康の関東入封後は箕輪城主となった井伊直政の子、直勝が3万石で入封し安中城を再整備した。
 構造は藩主の御殿がある本丸と蔵などが建っていた二の丸、その東西には藩士が政務や勉強、鍛錬を行う場があり、さらにその外側を侍町が囲み、段丘を降りた城外に安中宿があった。
 近世城郭としては堀や土塁が小規模で、また隅櫓などの重層櫓なども無い。恐らく中世城館から近世城郭に造り替える際それほど手を加えなかったと思われる。だが土塁上の塀には鉄砲挟間が切られ、本丸・二の丸には搦手を設けるなど陣屋ではない近世の城としての体裁は整えられている。しかし中山道から関東に入り最初の守りとなる城としては些か心許ない規模である。
 


 現況

  
射撃場付近(安中市中央体育館)から本丸方向を見る。現在本丸と二の丸は市立図書館と小学校となっている。堀や土塁などの遺構は全く残っておらず、戦後直後の航空写真でも郭の跡は全く見つける事ができない。


市立図書館の東隣のプールはかつての坂口門跡で、現在八重が淵の碑が立っている。八重が淵のエピソードについては詳しく記載されているサイトがあるのでここでの説明は割愛させて頂くが、前橋城にも城の同じような場所に同じような伝説を持つ虎姫観音堂がある。幕末の安中藩士新島襄の妻も八重であるが、安中藩として縁起の悪い名前に襄は抵抗が無かったのであろうか。


坂口門跡から東に100メートルほどに国道18号バイパスを渡る歩行者専用の橋が架かっており、そこを渡ると太郎兵衛屋敷郭に至る。昭和41年にこのバイパス道路の敷設によりこの郭が破壊されるまで、ここには安中城時代以来の建物である大黒庵という庵と櫓台があった。


国道18号バイパスの建設の際に取り壊される大黒庵。眼下に九十九川、正面に妙義と浅間山を望む事ができる風流な庵であった。本丸にも九十九川に接して茶屋が設けられていた。

  
町口門跡地から城内側を見る。右に明治末期に建てられた旧碓氷郡役所、正面やや左側に樹木で隠れているが石造りの安中教会が建っている。町口門から宿場町へ降りて行く道は現在道路になっており、侍町と宿場町を隔てる崖線が今も残る。


現在も市道として残る大名小路に北面して郡奉行役宅(左)と武家長屋(右)が保存されている。郡奉行役宅と付随する長屋門は大名小路の拡幅に伴って元の場所から南側に数メートル移動している。武家長屋は平成元年に三軒分となっていたものを往時の四軒分の長屋へと復元整備されている。


郡奉行役宅平面図。北に面する大名小路から長屋門を通って入り、家人はトボグチから、客人は式台から入り、ジョウダンノマが応接室、ナンドが家人の寝室となっており、生活の場と公の場とが機能的に区画されている。平面規模としては100石程度の中級武士の邸宅である。家の南側には小さな菜園があり、家で消費する分の野菜を自給していた。


武家長屋の西側一軒分の平面図。郡奉行役宅と同じように台所から奥の部屋まで一列に並ぶ平面プランは安中藩の武家屋敷の基本型となっていた。カミザシキの奥に鎧用の戸棚があるのが特徴的である。徒士身分程度の侍の長屋と思われる。

 まとめ

 堀や土塁などが小規模で石垣も少ない安中城は現在地上に殆ど遺構を認める事ができない。だが段丘である外郭のラインを現在も辿る事が出来きる。現在は朽ちて読めなくなっているものもあるが要所に案内板などが立っており、城内の寺社の位置は現在も変わっていないため、比較的簡単に往時の安中城を想像する事ができる。
 安中藩は近世を通じて小さな藩であったが歴史に見るべき所も多く、また碓氷峠が近く周辺に史跡も多いので是非訪れて頂きたい、また郡奉行役宅と武家長屋も共通券なので是非両方見て頂きたい。

 
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